【府中で学ぶ】令和初・私のミニ旅行(その5)

こんにちわ!
今回のブログは、先月府中に出かけたときのことシリーズの続きです。
前回は、朝食に食べ過ぎたことを書きました(前夜も食べ過ぎてます)。

【府中で朝食】令和初・私のミニ旅行(その4)

今回は、「府中市立 ふるさと府中歴史館」を見てきたことを書きたいと思います。

 

 

「ふるさと府中歴史館」は、大國魂神社の境内にあります。

駅前で食事をして再度戻ったので、大國魂神社の鳥居をくぐるのは2回目です。

開館と同時に館内に入るとすぐ左に、椅子とテーブルがあり壁にモニタが掛かっているスペースがありました。

府中の有名な「くらやみ祭」の数本の動画を選んでみることができます。
「くらやみ祭」は、ちょうどこの日の数日前に終わったばかりです。
一つあたり数分の短い動画でしたので、選んでは椅子に座って見てみました。
祭の様子や、祭に燃える人々の姿から、「くらやみ祭」が如何に大事なものかを感じることができました。

途中で、このスペースに小学生たちと先生がやってきました。
近くの学校の校外学習のようです。
私は逃げられなかったのでスペースの端に立って、床に座る子供たちと一緒に学芸員さんのお話を聞いていました。
いいお話だったのにメモをとり忘れたので、1ヶ月経った今になったらほとんど忘れていて残念です。

「府中市は昔から街であり、歴史がある誇れる場所である」
そのことを、府中で生まれ育った学芸員さんの生の言葉として聞けたことに一番感動しました。

「やっぱり前泊してよかった!」
こっそり「グッ!」っと拳を握りしめつつ自分の行動を正当化して強化したのでした。
ことあるごとに「ほら、よかった」を繰り返すのをみると、私は前泊したことに罪悪感があるのでしょう (^_^ゞ。

学芸員さんからは
「府中では40センチ土を掘ると国府のものが出てきて、もっと掘ると縄文時代のものが出る」
とのお話もあり、
「道理で参道沿いのスーパー銭湯の名前が『縄文の湯』だったわけだわ~」
と納得しました。
昨夜から「なぜ縄文?」と気になっていたのでした。

府中では、五街道の一つである甲州街道が通り、鎌倉街道とも交差します。
府中は昔から宿場として発達し、国府の時代から発展してきました。
道路が集まる交通の要所であり、人も住みやすかったそうです。
多摩川という大きなシンボルもある、特別で恵まれた場所なのですね。

生徒さんたちが場所を移動するようなので、付き添いの先生に
「生徒さんと一緒に説明を聞かせてもらっていいですかー?」
とうかがってご快諾いただきました。

次は、私が今朝何度も見上げたケヤキ並木がテーマです。
生徒さんたちがパネルの前に集合して座っている後ろで、こっそりちゃっかりお話を伺いました。

まずは「馬場大門のケヤキ並木」について、私が写真を撮ってきた現地の看板などを参考に、ここでご紹介します。

(ご紹介はここから‥)
起源は源頼義・源義家親子が奥州平定の遠征の道すがら大國魂神社へ戦勝を祈願し、成就のお礼として、苗木千本を寄付したと伝えられているものです。
1062年のことなので、1000年近い、歴史由緒ある府中市のシンボルです。

その後、府中では伝統ある馬市が開かれていたこともあり、1600年頃に徳川家康が関ヶ原と大坂の役の戦勝のお礼に「馬場(馬を繋ぎ止める場所)」を二筋寄進しました。
その両側に土手を築いてケヤキの苗を植えたのが、現在のケヤキ並木の始まりだそうです。
馬場大門のケヤキ並木は、大正13年には、「国指定天然記念物」にもなりました。
(‥ここまでが、資料を参考にしての御紹介です)


学芸員さんからも、けやき並木は各地にあれども、天然記念物なのはこの府中の「馬場大門のケヤキ並木」だけとのお話がありました。
また、天然記念物とはいえケヤキは自然には生えることができず日光も必要な木なので、人が植えて、人が守ってきたことは確かだそうです。

源頼義・義家父子が寄付したケヤキの木は、おそらく残っていません。
枯れたら植えるのを重ねて、この並木を維持しているそうです。

市内の温度についてのお話もありました。
市内でも府中駅周辺は温度が高いのです。
その中でも温度にムラがあり、ケヤキ並木の場所は温度が低いそうです。
府中市のシンボルであるだけではなく、ケヤキ並木は天然のクーラーなのです。

そして、校外学習のみなさんが最後にふるさと歴史館の建物を出て場所を移動する様子なので、また一緒についていきました。

少しだけ歩いて、神社の敷地を出てすぐの住宅街の一角にあったのは、「武蔵国府跡」です。

武蔵国府跡-国衙地区-:東京都府中市ホームページ

今ある赤い柱は、以前柱があった位置に立てたものだそうです。
ここには、武蔵国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部)の役所がありました。

そっか、武蔵国ってそのへんなのね。
千葉は入らないのね( ゚Д゚)(←無知)

縦穴式住居があったような昔から、ここは町でした。
そして多くの人が住んできました。
この国府跡も、古くから何度も政治が行われてきた場所のようです。

以下は、上記府中市のホームページの受け売りです。

奈良時代初期から平安時代中期にかけて、全国60数か所に政務を行う「国庁」があり、国庁が置かれた都市が「国府」と呼ばれました。
そもそも府中という地名は「国府の中」という意味で生まれたそうです。

上のホームページのタイトルの「武蔵国府跡-国衙地区-」の「国衙(こくが)」は国府の中でも政務の中心となった施設である国庁を含むエリアです。

武蔵国府跡は府中市内の広域にわたり数多く発掘されており、中でもこの国衙地区は国の史跡として整備されています。
南北約300メートル、東西約200メートルの範囲であると考えられ、現在の大國魂神社の敷地内にまで及ぶそうです。
この柱があった建物は国衙の中枢にあり市内最大規模ということなので、勝手なイメージですが今なら東京都庁のあの建物みたいな感じでしょうか。

なお、政治を行う人は「国司」で、奈良の都から来ていたそうです。

そうなんだ!

展示施設の中にも生徒さんたちと一緒に入ったもののぼーっとしてしまってあまりよく覚えていないのです。
このあと予定があり時間が迫っていたので、先生にお礼を伝えて大國魂神社付近をパタパタと後にして気がそぞろでした。

上記ホームページによると、展示施設の側面はミラーガラスの映り込みを利用し、当時の建物の規模を表現しているとか、展示施設内にも柱があるとか(覚えていない)の情報があります。
こうして振り返ると、もう一度、ゆっくり見てみたいなあと思います。

 

 

さて以上のように、実は私は「ふるさと府中歴史館」の中は、
「見てきました!」
というほどは見ていないのです。
しかしラッキーにも学芸員さんたちの説明を聞くことができて、展示のすべてを眺める以上に、心に残る1時間弱の滞在でした。

そういえば、上にご紹介した「武蔵国府跡」は、読み札を一般的募集してつくられた「武蔵府中郷土かるた」では
「 いちばんはじめに武蔵の国府」
として「いろは」の「い」に鎮座しています。

私が府中という場所に急に興味を持ったのも、昔に政治の中心だった場所と気づいたときからでした。
(石ノ森章太郎先生のマンガ「日本の歴史」に影響されました (^_^ゞ)

次は前泊などとオオゲサでなくていいので、またふらっと府中まで足を伸ばして、ふるさと歴史館と国府跡を見てみたいと思いました。

そういえば、国府跡から急いで駅に戻るときに見つけたのが、大國魂神社そばにある「府中市観光情報センター」という観光案内所です。

「あっ、こんなところに!( ゚Д゚)」

次は、一番初めにこの観光案内所に立ち寄ってみようと思います。

あー、学んだ学んだ (*≧∇≦)ノ。

府中のミニ旅は、もうちょっと続きます~。