長谷川和夫著「ボクはやっと認知症のことがわかった」を読んでいます。

こんにちわ。
先日のこと、電子書籍ストアでフォローしていた本が半額になり、その上に20%クーポンが当たったので即買いしました。

ボクはやっと認知症のことがわかった
自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺書

長谷川和夫 医師
猪熊律子 読売新聞編集委員

今日は、その本のご紹介です。

 

 

長谷川先生のことは、以前にも先生が手掛けた絵本でご紹介しました。

絵本「だいじょうぶだよ―ぼくのおばあちゃん」を読みました

長谷川先生がどんな方か、すっきりわかる表現を見つけました。
以下は、「ぼくはやっと認知症のことがわかった」で共著の猪熊律子さんの、巻末の「解説」からの引用です。

「痴呆界の長嶋茂雄みたいな人だよ」
十五年以上も前、医療・福祉分野に詳しい先輩記者が、長谷川和夫さんのことをそう話していたのを覚えている。当時、認知症は「痴呆」と呼ばれていた。長谷川さんは、野球界のレジェンド・長嶋茂雄さんのように、実力はもちろんのこと、華があり、ユーモアがある人という意味である。

この「痴呆」という言葉の「認知症」への変更に、深く関わっているのも長谷川先生です。

 

半世紀という長い年月を認知症の臨床や研究に費やしてこられた長谷川先生が
「ボクはやっと認知症のことがわかった」
と、自分が認知症になった今仰る。
それに私はあらためて驚きました。
その知見、体験を伺うことができるこの本は大変貴重です。

章は大きく7章に分かれています。

第1章 認知症になったボク
第2章 認知症とは何か
第3章 認知症になってわかったこと
第4章 「長谷川式スケール」開発秘話
第5章 認知症の歴史
第6章 社会は、医療は何ができるか
第7章 日本人に伝えたい遺言

医学的なことも補足としてやや小さな文字で書かれており、読みやすく、わかりやすいです。
認知症を初めて知るための本としても、有用だと思います。

また、認知症になったことをさらっとカミングアウトしてしまう長谷川先生ご本人。そして先生を支えるご家族のこと。
そのバックグラウンドとして大きな影響をもつ、信仰のこと。
英語に苦労したアメリカ留学時代に三か月目に辞めようとした時に体験したノンバーバルコミュニケーション(言語によらないコミュニケーション)のこと。

テレビ番組やネットのインタビュー記事だけではわかり得なかったことが、ご本人が選んだ言葉やエピソードによってリアルに裏付けられる気がしました。本って素晴らしい。

 

 

さて、3章の「認知症になってわかったこと」で長谷川先生は、
「何よりもいいたいのは」
と真っ先に
「連続している」
という言葉を提示されます。

認知症になっても人が変わるわけではなく、昨日の続きの自分がそこにいる。
いったん認知症になったから終わりではない。
周りも、何もわからなくなってしまった人と一括りにしないでほしい。

という内容でした。
しかし私には、それがよくわからない。

認知症になって初めてわかったこと?。
50年の臨床・研究経験でもわからなかったこと?。
たまにいいある患者さんは少なくなかったはず。
あまりいい言葉ではないけれど、
「まだらぼけ」
という表現もあります。

そして私は、「あっ」と思いました。
何かが頭の隅を走り抜けていったのを掴んでちぎれた物が少しだけ手のなかにあるような感覚です。

同じように見える事実でも、それが自分の立場になったときに全く違うのかもしれない。

「まだらぼけ」と表現する人から見て、認知症の人は
「あっちの人」
です。
そうではないんだと。
同じ人間としてこれまでと変わらないんだと。
長谷川先生が初めてわかったと仰るのはそういうことなのだろうかと想像します。

そう考えていて思い出したのが、長谷川先生の本で知った
「パーソン・センタード・ケア(その人中心のケア)」
という言葉でした。

「おかしくなってしまった人」ではなく、昨日からの連続を生きている人を尊重しその立場に立ったケアをする。

私に先生の仰りたいことがピンとこないのは、今の時代の「認知症」が、昔とは違っているからかもしれません。
認知症になるということは以前は穢れたものとして扱われ、身体拘束もあたりまえのような時代があったそうです。
それはそんなに遠くない昔のことでした。
「痴呆」が正式な言葉だったのも15年前とまだまだ最近です

そういう良くなった時代に身内が、自分が老いて、あたたかい環境でお世話になれる(かもしれない)。
それもまた、長谷川先生をはじめとした多くの皆様のおかげなのですね。

 

 

長谷川先生がやはり文中で仰る
「時間を差し上げる」
ということが、私には心に刺さりました。

その人が話すまで待ち、何をいうかを注意深く聴いてほしいと思います。「時間がかかるので無理だ」と思うかもしれません。でも、「聴く」というのは「待つ」ということ。そして「待つ」というのは、その人に自分の「時間を差し上げる」ことだと思うのです。

ですよね。ですよね、
でも、私にその余裕が持てるのか。
身内にも、他人にも。
自分のことで常に手一杯で焦っているのに。

私はこれといった信仰を持っていないけれども、心のよりどころとして信仰を持っていることで人に優しくなれるのならば、それも必要かもしれません。

そして、経済的余裕も必要?。
いや、そこは気持ちを切り替えて時間をやりくりして上手くやることでなんとか…むにゃむにゃむにゃ。
ダメだダメだ。
私が考えていると、どんどん俗っぽくなります。

長谷川先生は、まだまたやることがあると仰っています。
認知症ケアの指導者になったリーダー自身のアフターケアシステムの構築が必要とお考えで、
「いまの夢」
としてそのことを語っておられます。

そんな長谷川先生を大変偉大な方だと、私は思いました。
そしてそこから遠く離れたウチの母も私も、同じく唯一無二の存在として尊重されるべき存在なのだとも気づきます。
ビバ!自分。

誰もが最期まで豊かに生きることができるように。
長谷川和夫先生に感謝しつつ、そんなことを思った本日のブログでした。